『声をかける』刊行記念トーク

高石宏輔さん×文月悠光さん

対談・文章を整える

 高石宏輔さんの新刊『声をかける』(晶文社)に推薦文を寄せてくださった詩人の文月悠光さんの対談です。
 高石さんの『声をかける』と、文月さんの詩をとりあげながら、詩、小説、エッセイなど、文章を書くというのはどのようなことなのか、どんなふうに考えながら、文章をかたちにしていくのかについて、語っていただきました。

 

■「声をかける」について

文月 今日、私は高石さんとは初対面なんです。初めて高石さんを知ったのが『あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知』(春秋社)を本屋さんで手にとって読んでから。変わった本だな、と感じていました。一般にコミュニケーションに関する本は、相手が話題を振ってきたらこう返しましょう、というような、言語的な意味の部分にだけに特化すると思うのですが。高石さんの視点はそういうノウハウ的なものとは違っていました。他者への観察が鋭く、深い響き合いを目指されているような。独特な位置の方がいるな、と思っていたんです。そして、あるとき高石さんからメールをいただいて。
高石 僕が帯を書いていただきたくて、お願いのメールを出しました。
文月 『声をかける』の帯に推薦文をぜひ、という形の。
高石 たぶん断られるだろうなと思ってメールをしたんですけど。
文月 はい。推薦文に思ったことを書いて「こういう内容でもよろしければ使ってください」とメールしたら、高石さんに「断られるだろうと思ってました」とお返事をいただいて。「えっ、ズルい」って思いました(笑)
高石 どうしてズルいんですか?(笑)
文月 正直言うと、私も引き受けるのに勇気が必要でした。本の推薦文は今までほとんど書いたことがなかったし、代々木忠さんと二人だと、かなりインパクトが大きいと思いました。引き受ける際にも、推薦文を書く際にも「どうして自分なんだろう?」と悩む瞬間がたくさんあったので。「断られるだろうと思ってました」と言われたときに、それまでの緊張に穴があいて、「早く言ってよ、ズルい」という気持ちになったんだと思います。
 私が書いたら、いわゆる推薦文的な内容からは離れたものになるけれど、それでも自分の抱いた印象とか感想には素直でいたいなと思いまして、「読み始めてすぐに、拒否感や怒りのような感情が湧いてきた。けれど、目をそらしてはいけない気がした。登場人物は、誰もが身勝手で寂しい人たち。それぞれが、ちゃんと歪な存在だった」とコメントを寄せました。
高石 本は物ですよね。ただのテキストじゃなくて、人々の目に触れるところに置かれる。その物としての本が街の中で人に見られた時に、人がどう思うのだろうかと考えました。そのときに、表紙に男性と女性お一人ずつの推薦文をいただきたいなと思ったんです。内容にかなりセックスの描写がありますから、下品に思われたかもしれませんけど……。
文月 下品とは思わなかったです。
高石 よかったです。自分としては、下品なことはやってないつもりなんですが。だから、推薦文は、性的なこととか、人があまり触れたがらないことに対して、品性を失わずに書いていただける人にお願いしたかったんです。
 文月さんのエッセイをネットで初めて読んだときに、びっくりしました。ネットのエッセイは、下品というか、女性のエッセイだったら、女性性を売りにしていませんと言いながら、結局売りにしているようなものが多いように思っていたので、そういう文章ではまったくなかったので。
文月 いきなり怖いところに突っ込みますね。
高石 そうですか? そういう女性性に対して正直に書かれていたので、文月さんに推薦文を書いてもらえるなら下品にならないと思ったんです。
文月 なぜ断られると思ったんですか?
高石 うーん、イメージがありますよね。表現活動をしていくに当たって、あまりリスクを負いたくないっていうのが普通の考えだと思うんです。この本に対して帯を書いたということがリスクになる可能性が高いと僕は思ったので。
文月 そうですね。私もリスクは当然考えたんですけども、推薦コメントを書かないことによって、この本に描かれている人たちの声を無視する形にはしたくなかった。かといって、主人公が行っているナンパというコミュニケーションの取り方を、私が何のためらいもなく肯定できるかと言ったらできなくて。ただ最終的には、自分に元々ある価値観で判断しない方がいいかなと思ったんですね。
 推薦文には、私がこの1冊から受け取った印象は凝縮されていると思います。

 

■描き方について

高石 内容ではなく、描き方についてはどう思われましたか?
文月 やはり他者への観察の鋭さを感じたのと、人と関わることで、自分の輪郭を崩していくような響き合いを感じました。描写はとても美しかったです。
 ただ、主人公がこの本に描かれている経験を経て何を得たのか、という点は、わかりやすく書かれていないと感じました。わかりやすく書くのは簡単だと思うんです。でもあえて書かなかった、なぜだろうという不思議さはありました。こういった内容だと通常はエッセイに近いほうが書きやすく、読者も入りやすいのではと思います。
 なぜ小説という形で書き始めたんですか? 執筆期間は2年以上で長いんですよね。
高石 2年以上かかりました。これが小説なのかどうなのか自分でもわからないんですけど。物語にするっていうのは決めていたんです。
 前の本を書いた時にはノウハウ、つまり役に立つであろうものを書きました。それで今度はノウハウではないのもの、つまり役に立つことを意図せずに本を作りたいと考えました。
文月 エッセイで過去の体験を書くと、どうしても現在の自分の目でその体験に答えを出してしまいます。小説のような形式だと、その視点が入りにくい。なので、その体験が純粋なものとして保持される気がします。もちろん『あなたは、なぜ、つながれないのか』にもナンパをしていた頃のお話とか、ここに出てくるお話と重なるような記述はあるんですけど、読んだときの感覚は全然違う。
高石 そんなに違いますか?
文月 違います。『声をかける』のほうが身体に近く迫ってくる印象です。『あなたは、なぜ、つながれないのか』はノウハウを書いた箇所もあるので、そのノウハウを説明する時のわかりやすい素材として自分自身のエピソードを出していますから。そうなると、読んだ後にしまう場所が全然違ってくるなと思います。
高石 自分の中でしまう場所ってことですか?
文月 そうですね。推薦コメントで「怒り」とか「拒否感」という言葉で表したのですが、『声をかける』には、自分の中に侵入される感覚が強くありました。あるべき自分でいるために守ってきたフィールドのようなものに踏み込まれる感覚があって。それが何かしら切実な部分に触れる大事なことなんだという確信はありがならも、決して心地いい体験ではなかった。主人公も女性を依存させるし、女性たちも依存するし、という関係性の中で閉じていて、それが抱えきれなくなる形で壊れていく。その繰り返しなので、とても胸が苦しくなりました。言い方が悪いですけど、傷口を広げるだけ広げて放り出される感覚があって。
 ただ、その女性の声や振る舞いに対する主人公の観察の目を、私は非常に面白いなと感じました。主に自分が読もうとしていた読みどころはそこですかね。
高石 それはどう面白いんですか? 観察の目に関しては、現実ではないかもしれませんよね。物語の中での描き方の1つでしかないですから。
文月 そうですね。確かにその可能性はあるんですが、現実ではなかったとしても、現実以上にリアルだし面白かった。相手の身体の状態や、そのとき自分の内側がどう反応したか、という点を書いた小説って、最近の作家さんではあまり見たことがない。ここまで緻密に書いてる方は珍しい。しかも自身の体験と重なる部分があるのであれば、自分が作者だったら書きながらとても苦しいだろうなと思いました。どういう気持ちで書いてましたか?
高石 毎日書き終わったら目にクマができてましたね(笑)。健康が害われると思って、最後の直しのときはもう限界でした。
文月 推薦文を書く時に読ませてもらったゲラからも、ちょっと変わっていましたよね。
高石 読み返せば読み返すほど、どんどん変わっていくんですよ。
文月 わかります。私も直し魔なので。
高石 直していく作業は、自分で自分のカウンセリングを延々としているような感じでした。
文月 しんどいですよね。
高石 でも、逆に言えばそうやって自分を見つめる以外に、人生の中ですることって特にないかもしれないなとも思うんですよね。
文月 いきなり命題が大きくなりましたけど。
高石 そうですね(笑)。自分がしたかった事だけに集中できる環境を、執筆させてもらえることで、この2年間確保することができたという感じです。

 

■文章がもつ時間

文月 私もエッセイの連載をしている頃は、今現在という時間を生きながら、常に過去の自分と一緒にいるみたいな感覚でした。そういう感覚はなかったですか? 常にやや未熟な頃の自分が自分の中にいる、という感覚は……。それだけ長い期間、文章として濃密なものを書きつづけていたら。
高石 ありました。小説はエッセイと違って、今の自分から過去を振り返るという形式で書かなくていいんです。そうすると、読んでいる人にとってはその当時の描写なのに、書き手としては当時ではなく今の感覚で書くことができるから、当時と今の時間が重なっていくんですよね。
 これってこの本のトリックだなと思うんです。自分の体験に近いこともたくさん書いてるので。じゃあ、実際の僕はその当時にこの本で書かれているように思ったのかというと思っていないんですよ。25歳コミュ症がこんなにいろいろ思えないですよね。
文月 それは思いました。
高石 実際には、その時はほとんど見落としているんじゃないかっていうぐらいに早いスピードで出来事が展開していきました。
 たとえばセックスの描写をしているとき、実際は10分くらいだった出来事を、3〜4時間かけて、書いてるんですよね。10分を3〜4時間も行ったり来たりして再体験しているんです。文章を書くことはそういうことを自分にもたらしてくれるなと思いました。
文月 それは高石さんが書き手として粘り強いからじゃないかな。読んでいる側にも、時間が伸び縮みする感覚が強くあって。描かれている時間と関係なく、時間がゆっくり流れたりする。執筆の影響なのだと思います。
高石 詩人である文月さんに、そういう事を伺ってみたかったので、とてもうれしいです。高校のときから詩が好きで読んでいました。ボードレールとかマラルメとか……文月さんは、日本で「詩人」っていうと「ポエマーですか?」と言われるとエッセイに書いていましたが、僕は詩人っていうと彼らのイメージがあって、文月さんもそういう方だと思っているので、自分の文章をどう思われたのかを聞いてみたかったんです。
文月 ハードル上がった!(笑) しかし、そういう風に詩が好きであるということを隠さずに人前でしゃべってくれる人がいかに大事か。文章にすごく美しいな、好きだなって感じた部分が何ヶ所かあります。女性とのセックスの最中の描写で、「彼女から感じた静かな部分に集中すると、湖の水面が想起された。彼女に近づくごとに水面がざわざわと波立っていこうとする。その水面を静かに保とうとしながら近づいた」という部分は、時間にしたら数秒くらいの瞬間だと思うんですが、その2人の距離感であったり、主人公が感じた恐れ、それでも近づきたい思いが自然に頭の中に入ってきて、ああ面白いなと。文章でこういうことができるんだと感じて。水面を突き通って、水中に入り込んでいく感覚がありました。
高石 ありがとうございます。
文月 この本は原因があって結果がある、という因果関係の形で書かれてないですね。別にナンパは犯罪行為でも何でもないんですが、普通人はこんなにナンパをするかと言ったらしないから。じゃあ例えばその原因はこの主人公の家庭問題にあるとか、そういう読み筋がありえそうだし、そういう書き方もできたと思うんです。薄っすらと匂わせはしますけど、そういう風に描いてはいない。細部に主人公の幼少期のエピソードが挟まってくるだけです。そのエピソードを私はすごくイイなと思って読みました。。

「どうしてだろう。幼い頃からそうだった。みなが同じことをしているとふと自分だけ我に返った。周りを見渡すと、周りの人たちは僕がその空間の外側に出て彼らを見ていることに気がつかなかった。そのときには不思議と誰とも目が合わなかった。みな、催眠術をかけられたみたいに自分がしていることに没頭しているように見えた。
 そのときにふと目が合う人が稀にいた。小学生、中学生、高校生、大学生のとき、どんなときにも。それはクラスに1人くらいの割合で。」

 単に周りが熱中している時に自分だけ冷めてしまって、取り残されたような感覚を覚えることは、出来事としてよくあると思うんです。ただ「周りを見渡すと周りの人たちは僕がその空間の外側に出て彼らを見ていることに気がつかなかった」という書き方が独特だなと思ったんですよね。
高石 独特ですか?
文月 だって、わからないじゃないですか。周りの人たちは気がつかなかったと書いているけど、周りの人たちが気がつかなかったかどうかは、主人公にはわからないはず。
 「その空間の外側」に出る、という書き方は、周りが作っている空間がある、という前提をインプットしてから読まないと、うまく読み解けない。読んでいると「あ、こういうことあった」と出来事に反応する気持ちと、読みながら再体験をして「ここが違う」と気づかされる部分がありました。
 この場面はすごく好きです。全然本筋とは関係のないエピソードですけど。
高石 この本にとってはそういう描写の仕方が本筋だと思っています。つまり、主人公が周りをどう見るかということです。
 ナンパはナンパで一つのわかりやすいエピソードだから、書くための題材として選んでるだけで。僕としてはそこまでナンパを大事に思ってるわけではありません。人間同士の関わりを描くときに、すでに体験をしているから書き易い題材として選んでるという感じです。
 どんなふうに他者を文章で描くことができるかを試したかったんです。
自分本位な見方ではなくて、ちゃんと他者やその状況を見ることができたら、きれいな文章になるはずだって思っているんです。もし見れていなければ、過剰にロマンチックに書いたり、過剰にペシミスティックに書いたり、どっちかに振れてしまうだろうなと思うんです。
 あとは人にこう見せたいという感じで強調しすぎたり、逆に削り過ぎて何が書かれているのかわからなくなったり。
文月 ありがちですよね。作者はフラットに書いているようでいて、本当は「自分は悪くない」ことを言いたいだけだったり。内心「見せたい」と思っているものは文章にも現れてしまうものだと思います。書き手は文章を作っている側で、コントロールできていると思いがちなのですが、実は丸裸にされてしまう怖さがある。きれいな文章にしたい、というのは、自分の目に見える景色をきれいに均していくみたいなことでしょうか。
高石 そうですね。初めに書いたときは、ただ女性の悪口を延々と書いてるだけの原稿が出来上がったんです。
文月 こわい(笑)。
高石 ただの女性嫌悪の人が書いてしまったという感じになってしまって。それを読み返すとなんて自分は愚かなんだろうって思いました。何が愚かかはわからないけど、悪くしか書けていないってことが愚かだなと。
 そんなふうに自分でも消化しきれていないものは丸く描けず、トゲが出てきてしまいます。そのトゲを外からハサミで切ってしまうのではなくて、自分の内面を見つめるとトゲが自然と文章から引っ込んでいってくれるのだと思っています。
文月 なるほど。文章に表れる自分自身のトゲを観察していくのですね。それはPC配慮(ポリティカル・コレクトネス)みたいなこととは違いますよね。例えば、この1行が入っていたら女性蔑視になってしまうから抜いておこう、とか、そういう単純な操作のことではない。
高石 PC配慮して、それらを取り除くと気持ち悪いものになっていきますよね。
文月 気持ち悪い?
高石 文章として気持ち悪いものになると思うんです。人付き合いもそうですが、初対面で必要以上ににこやかな人は、かえって危ないヤツだなって思うんです。裏があるなと思うんです。
文月 え!?(笑) でも、相手は単に会えてうれしくてニコニコしてるだけかもしれないし、普段からニコニコしている人かもしれない。そういった相手の様子から読み取ることの面白さを、高石さんの本からもすごく感じます。同時に、もしかしたらそれが自分の思い込みかもしれないっていう恐れは常にあって、その間をグルグル回ることにもなる。それは面倒だなとは思いませんか?
高石 たまに自分の中で受け容れ切れないものが現れた場合は面倒だなって思います。でも、それを面倒だなと完全に拒絶したら何のために生きてるのかあんまりよくわからなくなってしまいます。
文月 いきなり可能性を削り取りますね。面倒ごとを引き受けるか、生きるのをやめるか、1か0かみたいな感じ。そこに生きる意義があるんですね。
高石 そうですね。自分の中での日常の変化もなくなってしまうような気がします。
文月 確かに自分にとってノイズになるような刺激を「疲れるから目にしたくない、耳に入れたくない」と拒否してしまうと、毎日が同じになってしまう。同じ映画を見続けるように、同じ日常を再生しつづければいい。極論そうなってしまいますね。

 

■ことばを社会のなかに置く

高石 文月さんの「レモンの涙」という詩が『わたしたちの猫』にありますね。あの詩がすごく好きです。自分がレモンになるんですよね。
文月 はい。そうです。
高石 たとえば、焼き魚についてるレモンになったり、いろんなレモンになりますね。
文月 紅茶に沈んだりするんですよ。
高石 初めは丸善の梶井基次郎の「檸檬」から始まりますね。
文月 はい。
高石 職業として詩人だったり、職業として文章を書くことを選ぶって何だろうと、最近よく考えるんです。僕は2つの仕事しているから、別に本を書かなくても生活はできます。僕はたぶんご飯のために書き始めると一気に崩れるなと自分で思っていて、だから自分のためにそういう選択をしています。
文月さんの1番初めの詩集に、自分が街の中にスカートが広がるように咲いていくものがありますね。
文月 はい。「落花水」という詩で、美術室の詩です。
高石 美術室から街の中にぽっと落ちますよね。
文月 そうです。美術室の場面からはじまり、最後は雲の上に駆け上って、飛び降りて、その落ちたときのシミがお花のみたいに広がっていく。口頭で説明するとアホみたいですけど(笑)。
高石 そんなことないです。読んだ時にそのイメージが切実だなって思ったんです。心血を注がざるを得なかった感じを勝手に想像しました。
文月 はい。
高石 レモンの詩は、読者としての印象ですが、軽くていいなと思ったんです。読んだときに、もし自分も人のレモンだったらどうするかなと想像が広がっていきました。
 居酒屋でレモンを絞ってたりしても、そのレモンがちょっと擬人化されるんです。その想像が現実の中にフっと侵入してくる楽しみがありました。それは「落花水」とは違う感覚でした。詩人として世の中に文章を渡していく感じ……ファッション誌にも最近書かれていましたよね。
文月 はい。モデルの藤田ニコルさんのページに詩を描き下ろしました(「GINZA」2017年2月号)。
高石 その場合、文月さんの言葉がスッと、詩集を手にとらない人に行き渡りますよね。世の中に対して文章を提示するとどうなるかということを思った上で、その文章を書いてらっしゃるのかなと思いました。レモンの詩もそんな感じがしました。
文月 挙げてくださったレモンの詩は、雑誌のテーマ自体が「レモン」で、レモンに関する詩を「この写真に寄せて書いてください」という依頼でした。そういう依頼が多いんですね。先ほどのファッション誌であれば「リップとカシミヤニットが出てくる詩を書いてください」と指定を受ける形です。
 第1詩集の頃は、基本的には自分自身が体験したことをベースにして書いていました。自分と同じ女子高生を語り手にして。いまは、テーマが与えられるとそのテーマが自分にとって近いか遠いかはあんまり関係なく、そのテーマから想起する人物像やキャラクターを書いています。
 先ほど挙げていただいた「レモンの涙」もそうですね。レモンは日常の食卓ではごくありふれた存在だけど、その一滴で食材の味をすごく変えてしまう。誰かの隣りで添え物みたいに大人しくしてるけど、実は隣にいる人の内面をすごく変えている。大人しい顔をしていて、実は力を秘めている女の子をイメージして書きました。
 指定されたモチーフや、自分が見つけてきたモチーフにどこまで没入できるのか、という部分はまずありますが、一方で遠くから見て「あ、それ面白いね」って演出している自分もいる。そんな二つの自分を行き来して書いています。
高石 世の中にはネットの文章を始め大量の文章が溢れています。ツイッターもそうですが、格言みたいなのをみんなが書いています。何の根拠もないのに。それらの文章をあまりよいものではないなと僕は思うんです。自分も書いてしまうときがありますが。たとえば、ある種の人たちをさして、こういう人は相手にしなくていいんだというようなことを書いてしまう。
文月 人にはラベリングして分類したいっていう欲求がありますよね。
高石 それって疲れていたり、病んでいたりしないと楽しめないなと思います。
文月 ああいうのに共感しちゃうときって大抵疲れているときですね。
高石 そういう文章は人の思考を、よりその人の持ってる枠の中にはめていってるように見えます。発している本人はそのつもりはなくとも。でも詩の言葉はそれとはまったく違うように僕には思えるんです。だから、社会、つまり他人がたくさんいる中に言葉を投げかけるって何だろうって考えるんですよね。
文月 私は社会に投げかけているとはあまり思っていません。例えばミュージシャンだったらライブ会場や、映像中継などで自分の生の表現をたくさんの人に一気に届けることができます。でもテキストは、基本的には読者と1対1じゃないですか。
高石 読む時は1人。
文月 そう。本を読む時は本と自分という1対1の状態になる。その1対1の人たちが無数に存在していて、読者になる。だから世の中や社会に対してというより、たまたま手に取ってくれたり気にしてくれた人の中に深く届くといいな、という気持ちだけですね。
高石 社会に対する投げかけみたいな感じはないわけですね。
文月 私自身の自覚はないですね。
高石 本を出したり文章を書いたりすると、自分がまったく知らないたくさんの他人がそれを読む可能性がありますね。不特定多数の、誰かはわからない人という意味では、一種の社会というか。
文月 そうですね。確かに誰かは分からないですし、私もこういう形で人前でしゃべる機会はあるので、そうすると読者の方とお会いします。エゴサーチもたまにするので、読者の方のアカウントがわかって「こういう人が読んでるんだ」と思うこともある。だけど、そういうふうに発信したりイベントに足を運ぶことのない、見えない層の方ももちろんいる。見える部分から、見えない層を想像するしかない。
 私はどんな人が読むのかわからない場所だと何を書いていいかわからなくなるんですね。だから、書く前はどんな人が読むのかはわからないけれど、ひとまず雑誌や媒体の色で調整はします。
 私はどこかのタイミングで「詩人になる」と決めたわけじゃないんです。いまこうなっているのも成り行きなので。高石さんは、カウンセラーになろうと決めた瞬間はありましたか?
高石 僕もたぶん成り行きなんでしょうね。なりたいと思った部分はあるけど、なりたいと思ってなれるわけでもないですし。

 

■エッセイを書く

高石 エッセイをネットで連載されてますね。自分が感じたことをエッセイいとして世の中に発信していますが、それは詩とは少し感覚が違うものですか? たとえば、文月さんはセクシャルなことに対して言うことも言われることからも距離を置かれている部分がありますね。でも、ストリップに行ったことを書いておられる。
文月 cakesというウェブマガジンの連載の中で、私が実際にストリップを見て感じたことをエッセイに書いています(「ストリップ劇場で見上げた裸の「お姉さん」」https://cakes.mu/posts/17044)。
高石 そこで、悪い意味じゃなくていい意味で矛盾があると思うんです。ここの矛盾の進む先は、どういうふうに思われてるのかなと思って。
文月 筋が通らなくなるのはある意味当然だと思っています。性的に奔放な人が「ストリップ見に行くわ!」とはならない気がするんですよね。人の中にはそういった矛盾がある。それを無理して自分はこういうキャラクターだからとか、こういう詩人だからという形で、「これは書けない」とどんどん切り捨てていってしまうと本当につまらない。
 あのcakesのエッセイは、自分は他人に与えることが苦手だけど、舞台の上に立つ女性は常に与える姿勢で、かつ誇りを失わずに輝いている、という描き方でした。そこで、あえて書かなかったことがあります。誰かの欲望を刺激したりするのは、自分は本当は怖いからできれば避けたいと思っている。もちろん踊り子の方は仕事だからできているわけだけど、仕事以外でも、そういう役割によって回っている場面ってたくさんあるわけで。そういう事を一切知らずにいていいのかな、という気持ちですね。私自身は、誰かに刺激を与えていると思った瞬間にサッと逃げるタイプなので。逃げずにドッシリ腰を落ち着けている人を見てみたかったんです。
高石 苦手な場所にシュッと行きますよね。それでまたフッと戻るみたいなイメージがあります。それでまた別のところに行って……それを繰り返されているように見えます。
文月 そうですね。連載自体のテーマが「臆病な自分と向き合う」ことでもあるので。ただ、そこで新しいものを受け取っているというよりも、元々あった後ろめたく思ってきたところ、向き合いたくないと思ってきたところ、そういう場所に改めて触れに行く連載になってきてると思います。そうなるとは当初想定していませんでした。
 高石さんもこの本を長い時間かけて書く中で、本来自分が思っていないところに着地したな、こういう事を書くための1冊だったんだ、と自分の意識が変わった時期ってありました。
高石 ありました。特に書き終わってから感じました。
 書きながらやっぱりどうしても声をかけたくなる時があったんですよ。禁断症状みたいに。それを抑えるのが大変になることがありました。それをどう消化すればいいのかがわからなくて。この本の中でもそうですが、何度声をかけてもそれは出てくるわけです。そのことをどうにかするために書いたんだと思います。
 そもそも人間関係について考えるのが面倒くさいっていう発想からナンパに向かっている部分があります。そういうものの一生分をさっさと終わらせたいっていう。
文月 そっちのほうが絶対面倒くさいですよ。
高石 その面倒くさいことをしたら、みんなが一生かけてやることを数年で終わらせられればいいなと思った部分が振り返ると確かにあったんです。
文月 でも数年で終わらせちゃったら、残りの人生どうするんですか。
高石 静かに、その……。
文月 静かに暮らす? そんなふうにうまくいくんでしょうか(笑)。
高石 それはわからないですけど……男性だからなんですかね、女性を見たときに性的な感覚でパっと見てしまうことが、どうしてもあるんです。そう思った時に彼女が他人であるということがパって浮かびあがってくるんです。それがしんどかったんです。
 もう何年も前にナンパをした女性からこの本の感想がメールできたときに、ふと楽になったということがありました。六本木のクラブで働いている人で、会ってはいないんですけど、たまに連絡くるんですよね。「赤坂のいい居酒屋ない?」みたいな感じで。
 その人から「本、読んだよ」とメールがありました。「読みながら、私も同じようなことを男性にしてしまったこともあるなって思ったりした」って書いてくれました。そして「みんな寂しいんだね。その寂しさを感じることは悪いことじゃないんだなって思えた」って。そもそも僕は寂しくてその人に声をかけたわけです。その当時、酔っ払って寂しくなってとりあえず雑にメールするみたいな感じの関係だったんです。それで怒られたんですよ、その人に。「寂しいからって連絡してくんな。それくらいわかるよ」って。
文月 当たり前ですね(笑)。
高石 そのときは謝ったんですけど、その人から「みんな寂しいんだね」っていうメールがきたときに、ちょっと楽になったんですよね。他の人もそう思ってるんだって思ったんです。じゃあいいやみたいな。単純かもしれないですけど。
文月 いい話ですね。自分の書いた本をきっかけに、他の人の思いを知ることができて。
高石 自分が触れられていない他人の何かに、本だからこそ触れられるというのはありますよね。そういう他人の気持ちを知るということが僕にとっては大事なんだと思います。
文月さんはどうですか? エッセイを書いている理由とかはありますか?
文月 そもそも日記を書いたり長い文章を書くことも好きだったんです。じゃあエッセイも書けるのかな、と思って。
 自分より先に本の言葉が行ってくれている感覚は、私にも確かにあります。去年エッセイ集を出したときに、ネットでの感想やサイン会とかでお会いする人の話を聞いていると、皆さん自分の話をしてくれるんですね。自分にも似た体験がありましたとか、自分の場合はこうだったっていう話を連続でツイートしてくれたり。
 エッセイの中に山手線の中で泣く話があるんですが、会って2回目くらいの仕事関係の方に、「僕も山手線の中で号泣したことがあります」と突然言われたことがあって。「なんで泣いちゃったんですか?」と、つい聞いてしまいました。自分の体験を書いて受け渡すことによって、読んだ人の中で締まっていた蛇口をキュッと回してしまうんですね。
 そういう面白さと同時にそれがやや怖いなという気持ちもあって。その蛇口を開ける力だけに特化しようと思ったら、もっと怖いことができちゃうなと。相手の秘密を引き出してしまうような。
 読者は本を読むことで「自分に対して話してくれた。お返ししないといけない」という気持ちで喋ってくれるのかもしれない。もちろん、そのことに嬉しい気持ちの方が強いんですけど、開けてはいけない蛇口をひねってしまう可能性もある。たとえばその人の触れたくない過去を刺激してしまって、闇が溢れ出しちゃうようなことも起こり得る。そういうことは文章ではなるべくしないようにしようとは思っています。「やってるな」という書き手は見ますけどね。
 ただ、そんな風にブレーキをかけるのも本当は無駄かもしれない。自分のコントロールできないところで読者の蛇口は開いちゃうんですから。「そういうブレーキがないほうが書き手としては強いんだろう、でもブレーキ踏んじゃう」というような葛藤はあります。
高石 僕も読む人の闇が溢れ出すような感じにしたくないとは、一応思って書いてはいます。それから、誰かが僕の本を読んで「僕もまったく一緒です」というような感じになったとしたら、文章として未熟なんだろうなと思います。自分の中の価値観ですけど、いい文章であればあるほど、蛇口を開けてもらえるなっていうのと同時に、でも、この人と自分とは全然違うんだろうなっていうのも同時に思うものだと考えています。自分と同一視させてしまうような文章は、そういう欲が自分の中にあると出てきてしまうのではないかと思います。
文月 相手を依存させたいとかそういう欲ですか?
高石 はい。だから文章が良くなればなるほどそういう感じにはならないんじゃないのかなと思っています。もし、この本が書き初めの段階のような女性に対する悪口のオンパレードだったら女性嫌悪の男性に「その気持ちよくわかります」って言われると思うんです。それはやっぱり避けたいなって思うんです。
文月 そうですね。自分のコメントが『声をかける』の帯に載って、実際に本が書店に並んでいるのを見たとき、責任感からか重さを感じたんです。なぜあの内容のコメントを書いたか、その理由を一生懸命頭の中で組み立てながら今日は来たんですけど、思いの外、そういう話にはならなかった。私が書くときに考えていることと近い関心のことを今日お話できました。準備してきたこととは違ったのですが、個人的にはとても充実した時間だったと思っています。
(了)

 

 

◇高石宏輔(たかいし・ひろすけ)
1980年生まれ。慶応義塾大学文学部仏文学専攻中退。初の著書『あなたは、なぜ、つながれないのか―ラポールと身体知』(春秋社)がロングセラーとなる。他に宮台真司らとの共著『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(KADOKAWA/)中経出版)がある。
◇文月悠光(ふづき・ゆみ)
詩人。1991年北海道生まれ。中学時代から雑誌に詩を投稿し始め、16歳で現代詩手帖賞を受賞。高校3年時に出した第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』で、中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少の18歳で受賞。早稲田大学教育学部在学中に、第2詩集『屋根よりも深々と』を刊行。2016年、初のエッセイ集『洗礼ダイアリー』、第3詩集『わたしたちの猫』を刊行。