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世界で会った人

 

第3回 ブラジルからきたナディー

 
(1)

玩具のハムレーの店,ロンドン

玩具のハムレーの店,ロンドン

ロンドンのリトル・ベニスの近くに住んでいたイタリア人、ノンナおばあちゃんの土曜日の会に、ある日黒いドレスを着た小柄な女性がきていた。控えめに座っているが、おかしいと笑い、静かな顔の口元と目尻と額に皺が浮くので、そう若くはないと見えた。思慮のある女性らしかった。ロンドンのブラジル領事館に勤めているブラジル人のナディーで、ポルトガル語なまりの英語は母音がはっきりして分かりやすく、ノンナとはイタリア語でも話していた。ナディーはいつも黒い服を着ておとなしくしているので、喪服の未亡人というあだ名がついていた。
あるときナディーはロンドンの地下鉄の駅で、旅行鞄をもった知らない紳士に呼び止められ、ヴィクトリア駅で財布を掏られてしまった。これからイタリア大使館へ行こうと思うのだが、電車賃を貸してもらえないだろうかと頼まれた。ナディーはすっかり同情して、小遣い銭を貸してあげた上に、困ったときは連絡しなさいと自分の電話番号まで教えた。翌日ブラジル領事館でその話をすると、「ナディー、とんでもないことをしたよ。それは危険だ。その男はスパイかも知れない。外国にいて良きサマリア人を演ずるのは止めなさい」と上司に諭されたと話した。
ノンナの家に集まる人はみんな貧しくとも善良な人たちで、そこは大都会ロンドンの小さな安息の場所だった。

 

(2)

テートモダンから見たセント・ポール寺院,ロンドン

テートモダンから見たセント・ポール寺院,ロンドン

日本に帰って3年ほどたったある日、公衆電話からと思われる電話がかかってきた。初め日本人の女の声がして、ついでいきなりラテンなまりの英語で、
「あたしナディーです。ロンドンでお会いした。いま近くの公衆電話からかけているんです」ナディーが近所の酒屋の店先の赤電話から電話してきたのだ。
ナディーは昔ブラジルのコーヒー園で働いていた日本人と、ロンドンにいながら文通し、結婚することにして日本へやってきたのだという。東京の北の端の都営アパートに住んで、夫は印刷工場で働き、自分は日本語が分からず、ノイローゼ気味になっていた。ノンナおばあちゃんから私の住所と電話番号を教わり、東京の南西の端のわが家を訪ねてきたのだ。ナディーの心を落ち着かせるために、私は週に1日彼女からイタリア語を習うことにした。体調がすぐれぬナディーは英語の使える病院へ診てもらいにいくと、カーテンもない診察室で裸にされ、幅の狭いシーツ1枚で身体を隠さなければならなくてすごく恥ずかしかったと、身振りをしてみせながら悲鳴を上げるような声で話した。
「無口で歴史本好きの夫は、昔覚えたポルトガル語も忘れかけて、なにも口をきいてくれない」と、これまた身につまされる日本人夫への不満を、「ネヴァー」と強い一語でもらして、訴えるようにじっと私の目を見つめた。細い身体で丈夫とはいえないナディーは、見かけによらず並み外れた精神力と行動力の持ち主で、新聞広告で見つけた都内の外国語学校で英語とイタリア語を教えるようになり、さらに狭いアパートの一室を拠点にして地域のリサイクル活動を始め、部屋には古物がいっぱい積み上がり、買い物に行けば、その近所では初めて見る外国人女性に見とれて自転車から転げ落ちたほかの買い物女性を助け起こし、その上サンパウロで写真館を始めるのだといって写真の勉強を始めた。
夫はそのうち結核に罹って清瀬の療養所に入り、ナディ―は夫に遠ざけられてロンドンに戻った。「ろくに口をきかない夫婦だが、別居しているのはおかしい」と、彼女はロンドンから再三私に手紙をよこした。夫に電話すると、
「ナディーはうるさいから」という返事だった。

 

(3)

リトルベニス、ロンドン

リトルベニス、ロンドン

やがて療養所の夫から「ナディーは単身シベリア鉄道でロシアを横断し、ウラジオストクから船で横浜港大桟橋に着くから、代わりに迎えに行ってくれないか」と、電話がかかってきた。
私は妻と大桟橋の手摺に寄りかかって4時間待った。ついに遅れに遅れた白い汽船が遥か沖合のベイブリッヂを潜ってまっすぐこちらに近づいてくるのが見えた。ナディーは入れ子のロシア人形を土産にくれた。
二人を歌舞伎座に招待したことがあった。夫のオサオは色白のおとなしそうな人だった。幕が上がったとたん、飾り棚の人形のように整った舞台を見てナディーは、
「ビューチフル」と叫んだ。
ナディーはブラジルの地図を拡げて、祖父は将軍で、これくらいの土地が自分のものだったのだといって、ブラジル全土の3分の1くらいの面積を指で囲ってみせた。父親は裁判官で、とても日本人していたといった。休日には家の庭の周りに板を細く切って竹垣のような柵を作り、食事のときは家族から独り離れて、広い部屋の隅の絨毯の上にあぐらをかき、大きなボウルに米や肉や野菜を入れたのをかき混ぜて食べたといった。聞いていると親しみのもてる素朴な大男の像が浮かんできた。
ナディーは東京の外国語学校で得た給料を貯め、サンパウロに貸家を数軒買い、さらに残りの資金と夫の退職金をもってブラジルに帰り、サンパウロから車で何時間もある大牧場を買って牛や馬を飼い、古い石の家を改装して住むのだという計画を話した。わが家で送別会を開いたとき、オサオはブラジル土産のハンモックをもってきてくれた。それ以後二人はどうなったのか、元気でいるのか、生きているのか、便りはない。
私は小柄で華奢なナディーからなにがしか生きる力をもらった。