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世界で会った人

 

第6回 アラン島のジョージ

 

(1)

アラン島のキリスト/アイルランド

アラン島のキリスト/アイルランド

アラン編みのセーターの発祥の地、アイルランドのアラン島へ、日本ヴォ―グ社に勤めていた若い友人が、アイルランドの西の町ゴールウェイから”ボート”に2時間乗って取材に行った話を聞いて、ぜひとも行ってみたくなった。漁師の女房たちが深い軒下に並んで羊の毛を手で梳き、毛糸に縒り、家族のために一軒一軒違う模様に編んでセーターを作っている光景を目に浮かべた。
手漕ぎのボートではなく、積み荷と客を乗せた貨客船はゴールウェイの港を出ると、岸壁のように真っ直ぐに伸びる岸に沿って延々と進み、沖に出ると、やがて平坦な岩の島が波間に浮かんで見えてきた。石ばかりが見える港に着くと、潮焼けした漁師がポニーに背負わせた籐の籠に座って客を待っていた。華奢なポニーの背骨に揺られて一歩一歩石畳の坂道を登り始めた。板石を何世代にも亘って営々と積み上げた垣の向こうにわずかな草地と、石造りの家の廃屋と、その向こうに土色の海と、はるかコネマラの山々が霞に包まれて眺められた。
「あなたの英語が聞き取れるんで感心したよ」と漁師にいうと、
「努力して話してるんでさあ」とにっこり漁師は答えた。
茅葺きの屋根にロープを掛けた白塗りの石の家が点々とあるだけで、深い軒も漁師の女房たちの姿もなかった。シーズンオフの9月に開いているゲストハウスはギルバート・コテッジ一軒だけで、石畳の道から緑地を少し下った海辺に、四角い石造りの二階屋が一軒建っていた。荷物を宿に下ろしてそのままポニーに乗って、絶壁の上にケルト人が築いたドゥーンエンガスの砦を見に行った。大西洋から吹き付ける烈風に抗して、千畳敷の岩盤を腹這いになって絶壁に向かって進み、怒濤を見下ろす断崖の縁までにじり寄り、頭だけ岩壁の先端からそろそろ突き出し、大洋から渾身の力を振り絞って何万年と叩き続ける波浪の轟きが岩島を揺るがし、洞穴を穿つ大自然の形相を凝視した。崖っぷちにへばりついている私の生身はどんな動物よりも情けない姿だった。
夕食はほかにボストンから来た中年の夫婦、ダブリンから来た美しい女子学生二人、ニューヨークからのハネムーンの若い二人。私は窓際のテーブルに一人で座って外を眺めていると、主人のギルバートは奥に用意した長いテーブルの上から、一人分のナプキンとナイフとフォークを私のテーブルに移し替えてくれた。やがてみなが奥のテーブルの席に着くと、ボストンから来たジョージが、
「なんでそんなところに一人で座っているんだ。こっちへ来てみんなと一緒に食事しなさい」といって私のナプキンとナイフとフォークをまたみなのテーブルへもって行った。ギルバートがステーキとサラダを一人一人に配った。私はジョージ一家の仲間に入れられ、絶えず繰り出すジョージの冗談にみなが笑う賑やかな夕食会になった。
六十三歳のギルバートはアラン島の出身で、若い頃アメリカへ渡り、ボストンで働いていたが、安住の地を求めてアラン島に戻り、土地を買って石の家を建て、独身でゲストハウスを始めたのだという。
「せっかくアメリカに行ってボストンで暮らしていたのに、なんでまたこんな小さな島にもどって来たんでしょうね」というと、
「人間、どこにいても同じではないですか」とエリザベスが諭すように言った。
先祖はケルトの王女だったというエリザベスのこの言葉は今も忘れない。彼女の曾祖父はこの島の出身で、墓石を彫っていたという。祖父がアメリカに渡ったのだ。コーク出身のジョージはそういうわけで毎年エリザベスとこの島を訪れるのだ。
夕食後近所にあるというパブへジョージと二人でギネスを飲みに出かけた。外は月も星もないまったくの漆黒の闇で、ただひたすら石の段を足で確かめ確かめ歩いた。後ろから足音がし、互いに声を掛け合った。パブはもう閉まっているという。私の尻にわずかに男の尻が触れたので、その男が狭い道を通り過ぎたことが分かった。
帰る日は嵐だった。雨水が草地を流れてゲストハウスのドアの下から侵入してきた。ジョージ夫婦のタクシーに乗せてもらい、港の近くのエリザベスの従姉の家に立ち寄った。シングの『アラン島』に書かれたとおりの、土間がキッチンとリビングルームをかねる素朴な間取りで、主人が庭へ牛の乳を絞りに行き、妻はスコーンと紅茶で、「食べろ食べろ」ともてなしてくれた。窓辺や棚や壁にキリストの十字架像、聖画、フィリップのトランジスタラジオ、銃一丁、半分未完成の船の模型、懐中電灯2本、数冊の本、リーダースダイジェストの合本、食器戸棚にマグカップ、ティーカップ、コーヒーカップ、木の椅子5脚、ソファ、オーヴン、ストーヴ、砂時計、そして掛け時計は10分進んでいた。激しい風雨の中のこの小さな家での温かいもてなし以上のもてなしを受けたことはない。
港に停めたままのオースチンミニのガソリンが抜き取られていないか確かめて別れて以来、ジョージは2か月か3か月に一度手紙をくれるようになった。ルースリーフになぐり書きの字で、“Dear Kojin, It’s a great day for it.” と書き出して、家族や水産会社の勤めの話、夏はフロリダまでドライヴし、タンパの仲間のバンドに加わり、避暑客相手にサキソフォンを吹く話。

 

(2)

ドゥーンエンガスの砦とそれを囲む石の鹿角砦(ろっかくさい)/アラン島、アイルランド

ドゥーンエンガスの砦とそれを囲む石の鹿角砦(ろっかくさい)/アラン島、アイルランド

4年後誘われて初めてアメリカに行き、 舟のように左右に揺れるローカル線でボストンから1時間ほどのロックポートを訪れた。美しい入り江と港のある観光地で、オマールを捕る木製の籠が岸に積んであった。 ジョージの家は海に面した道路沿いの古い木造の二階屋で、庭には星条旗が掲げてあった。小学校の教師をしている次男との3人暮らしだった。
そこから北の方にドライヴすると、詩人哲学者のヘンリー・デイヴィッド・ソローがそのほとりに小屋を建てて暮らしたウォールデン・ポンドと、その小屋を復元したばかりの白木の家があって、木の香も新鮮な室内には、ベッドと籐を張った木の椅子とテーブルと文机と暖炉があった。
途中で腹が減って、道路脇のホットドッグ屋の前で車を停め、長いホットドッグにマスタードをたっぷりつけてほおばると、
「おお、コージンはマスタードをつけるのか」とジョージは叫んで喜んだ。
土曜日の宵は町のはずれの広場にある石造りのステージで、ジョージの仲間のバンドの演奏会があり、夏の夕の潮風に肌をくすぐらせながら町の人々はサキソフォーンやトランペットやドラムの艶音が星空に響き昇るのを楽しんだが、道路沿いの家の大きな窓の中で、老婦人がソファから身をこごめてひとり聖書を読み耽っているのが見えたりもした。
「コージン、君を歓迎する曲を演奏したのが分かったかい」とあとでジョージに訊かれたが、残念ながら曲の名は知らなかった。「友よ遠方より来る」とでもいう曲名だったのだろう。町中で歓迎されたような気になって嬉しかったが、後になってジョージからこんな話を聞いた。
「町の知り合いから電話がかかってきて、なんでジャップを泊めるんだといわれたよ。あれはおれの古いペンパルだよといってやったよ」
日米戦争後33年目のニューイングランドの夏のことだった。
アメリカ人は“グレート”ということばが好きだが、ジョージが教えくれた手紙の挨拶の文句の意味はどうもよく分からない。「きょうはスゲー日よりだ」とでもいうのだろうか。ニューヨークへ行って、マンハッタンのソーホー付近のドーナツ屋でおやじにいってみた。相手はきょとんとしていた。それからアリゾナのフェニックスへ行って、馬の鞍やブーツや、レザーのチョッキやハットを売る店に入って、「イッツア・グレートデー・フォイット」といってみたら、かっこいい西部のマスターが、「グレート」と返してにっこり笑った。これだ。

 

(3)

ドゥーンエンガスの断崖から俯瞰した淵/アラン島、アイルランド

ドゥーンエンガスの断崖から俯瞰した淵/アラン島、アイルランド

その後ジョージ夫婦の金婚式の招待がきた。勤めがあったし、飛行機代も高い頃で、辞退して花籠を送った。アイルランド人の子孫たちや親族一同が集まり、盛大なパーティだったと大きな花籠の写真と一緒に手紙がきた。その後エリザベスは癌で亡くなり、次男のニールも腸閉塞で急に死んだ。ジョージは長生きした。定年後は近所のホテルの駐車場の整理係を務め、夏はフロリダのタンパへ避暑とバンド演奏に行き、日本へ来るのは12時間も飛行機に乗れないといって断った。そうしてついに事故を起こし、女友達に怪我をさせたので運転をあきらめた。アメリカ人が運転を辞めるのは老人ホームへ入るような心境だろう。それでもジョージは私に手紙を書き続けた。私も定年になるとまっ先にロックポートへジョージに会いに行った。ジョージは新しいズボンとシャツを着て朝から待っていた。懐かしい家の横のドアを開けて客間のフロアに上がると、少し小さくなったジョージと抱きあい、「イッツ・インクレダブル」とジョージは繰り返した。アラン島のギルバート・コテッジで会ってから30年が過ぎていた。その間私の女性の友人も、弟夫婦も、近くはボストン郊外のトップスフィールドにスタジオを構えている陶芸家の高鶴元さんの家族も訪れた。とても元気でダンスをしたと奥さんがいっていた。
去年の9月初めの早朝、アメリカから電話がかかった。「ジョージ」と名乗ったので「おお、ジョージ」と呼ぶと、声が少し若く、長男のジョージ3世だった。
「父が昨日の朝老衰でなくなりました。病院に2週間入って、食物が通らなくなり、家族に囲まれて安らかに亡くなりました。生前“おれが死んだらすぐに日本のコージンに知らせろ”といっていたのでお知らせします。93歳でした」
私が自分の歳を60とか70とかいうと、ジョージはいつも「ジャスタ・キッド」といっていた。私のアメリカの唯一の友人、人生の支えだった。