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概要

yoshimoto

一九四一―一九四八一九四八―一九五〇一九五一―一九五二一九五二―一九五七一九五七―一九五九●一九二四(大正13)年十一月二十五日 隆明、吉本順太郎・エミ夫妻の三男として、東京市京橋区月島東仲通四丁目一番地(現・東京都中央区月島四丁目三番)に生まれる。家には祖父・権次と祖母・マサ、長兄・勇、次兄・権平、姉・政枝が住む。●一九二八(昭和3)年 四歳遅くともこの年までに隣の島、新佃島西町一丁目に越す。棟割三軒長屋の角。四月 弟・冨士雄、同地で生まれる。この頃(推定)までに父・順太郎、月島に釣り船・ボートなどを作る「吉本造船所」を起こす。傍ら遊興用の貸しボート屋を始める。●一九三一(昭和6)年 七歳二月 妹・紀子生まれる。四月 隆明、佃島尋常小学校に入学。●一九三四(昭和9)年 十歳この年、深川区(現・江東区)門前仲町の今氏乙治の学習塾に入る。進学のためだったが合格後も通い、この塾で文学に目を開く。●一九三七(昭和12年)年 十三歳四月 東京府立化学工業学校応用化学科に入学する。この年(推定)、一家は同じ新佃島の西町二丁5 4 3 2 1略年譜▼吉本隆明の源流をたどると、吉本家は熊本県天草郡御ごり領ょう村(現・天草市五いつ和わ 町)の出。隆明の祖父・権次が近くの志岐村に出て造船業を起こし、百トン級の船の造船所として成功。海運業も営み一時は志岐村の長者番付の四位になるが、明治末の地域の造船業界の変化と大正期の不況で行き詰まる。父・順太郎が新規に製材業を試みるも及ばず、持ち家が差し押さえられたことをきっかけに一九二四(大正13)年春、天草を出奔、上京する。吉本一家が移り住んだ月島は東京湾内の埋めたての島。工業地帯で造船所や関連の工場もあった。折から東京は震災後の「帝都復興」事業で大工・船大工の腕を持つ父・順太郎が再起を期すのに適していた。*戦前の府立化工時代と米沢工業学校時代、および敗戦直後の詩と散文を収める*初期発表詩篇および二冊の詩集刊行までの膨大な草稿詩篇と最初期の評論を収める*膨大な草稿詩篇の後半部を収める*周到に用意された二冊の詩集『固有時との対話』『転位のための十篇』とそれに続く詩篇、および初期の代表的評論「マチウ書試論」などを収める[単行本未収録四篇]*最初の単行本である作家論『高村光太郎』と、前巻に続く初期の代表的評論「芸術的抵抗と挫折」「転向論」、および花田・吉本論争の諸篇を収める[単行本未収録一篇]全巻内容「哲」の歌 孔丘と老? 呼子と北風 詩碑を訪れて 山の挿話 詩集『草莽』 哀しき人々 雲と花との告別 宮沢賢治論ノート 「時?」詩篇 伊勢物語論Ⅰ 伊勢物語論Ⅱ 歎異鈔に就いて 姉の死など 他詩稿Ⅹ 青い並木の列にそひて 緑の聖餐 エリアンの手記と詩 詩と科学との問題 ラムボオ若くはカール・マルクスの方法に就ての諸註 覚書Ⅰ 箴言Ⅰ 箴言Ⅱ 日時計篇(上) 他日時計篇(下) 〈手形〉 他固有時との対話 転位のための十篇 ぼくが罪を忘れないうちに 涙が涸れる 少年期 異数の世界へおりてゆく 少女 明日になつたら 恋唄 マチウ書試論 蕪村詩のイデオロギイ 前世代の詩人たち 文学者の戦争責任 鮎川信夫論 定型と非定型 番犬の尻尾 西行小論 短歌命数論 日本近代詩の源流 他高村光太郎 「戦旗」派の理論的動向 文学の上部構造性 宗祇論 「四季」派の本質 芸術的抵抗と挫折 芥川龍之介の死 転向論 死の国の世代へ 不許芸人入山門 「乞食論語」執筆をお奨めする アクシスの問題 近代批評の展開 橋川文三への返信 詩人の戦争責任論 海老すきと小魚すき 転向ファシストの詭弁 他