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世界で会った人

 

第7回 ニューヨークのみな子

 

(1)

9・11トレード・センター崩壊の跡地/ニューヨーク

9・11トレード・センター崩壊の跡地/ニューヨーク

ニューヨークにみな子がいなかったら、私はその都市に取りつく島のない印象をもって南へ去ったことだろう。大都市の印象はそこに住んでいる一人の女性を知っているかいないかで、裏と表ほどにも変わるものだ。それは、写真には表面には写っても触れることのできない都市の温もりと息遣いと、そして心というものだ。外から見る女性と会話をしてから見る女性とでは別人のように違うのと同じだ。
みな子とは東京の友人の家のパーティで初めて会った。ニューヨーク帰りの、薄い唇を左右に引いてはっきり発音することばは写真のように明瞭で、きっぱりとしていた。薄地のブラウス一枚で、みなの前で健康体操をやって見せた。腕を左右に伸ばすたびに、ブラウスの生地から乳房が控えめに形を浮き上がらせるのにみんな見とれていた。
北海道の旭川出身で、短大を出て、黒人文学の研究にシカゴの大学へ留学したが、黒人の体臭にどうしてもついていけず、友人とニューヨークに出て行った。そこで日本人の商社マンと結婚し、娘を一人産んだが、アメリカの自由な空気をいっぱい吸い込んだみな子には、ショーヴィニスト(熱狂的愛国主義者)の夫に耐えられなくなり、離婚を決意した。血を吐くほどの試練と闘って自由の身となるまで、
「日本人はだれ一人として助けてくれませんでした。助けてくれたのはみんなアメリカ人でした」と、薄い唇をきっぱりと結んで告白したときは、日本人のみんなはしんとなってわが心のうちを振り返った。色白の柔肌に包まれた繊細な感性のなかに、芯の強さが潜んでいるのが感じ取れた。

 

(2)

マンハッタン/ニューヨーク

マンハッタン/ニューヨーク

私は家を離れて一人になりたくなって、アメリカの旅に出た。
みな子はマンハッタン島の南端に近いソーホーの古い倉庫のロフトに、娘と妹と母親の4人で住んでいた。5回のフロアを板で間仕切りして、寝室とキッチンとバスルームを造り、残った広いフロアがリビングルームで、中央に天井からブランコの椅子が一つ下がっていた。一日中日の当たる倉庫の夏は扇風機一台では暑かった。
ショルダーバッグに全財産を入れ、前後に気を配りながら用心深く歩道を歩いているばかりでは、ニューヨークは微笑んでくれない。美術館と本屋と劇場を巡るばかりだ。
みな子はスプリング・ストリートはゲイの通りで、ゲイ関係の本や品を売る店やバーがあり、突き当たりの波止場はゲイの溜まり場なのだと教えてくれた。ゲイたちは清潔で、部屋を奇麗に飾り、静かに音楽を聴いて読書し、嗜みのある生活をしているのだという。夏の午後、ロックポートのジョージがくれた派手なピンクのシャツを着て、ハドソン河に向かってスプリング・ストリートを歩いてみた。いわれなければ気がつかないような静かな通りだった。金網のフェンスの扉を開けて小さな波止場に入ると、白い遊覧船が停泊していて、そこここの水際に水着姿で寝そべったり、カップルで静かに話をしている人たちがいた。空いている水辺の縁石に私も仰向けになって横たわり、シャツのボタンを外して胸の汗を発散させ、もってきたカポーティの小説を読み始めた。辺りは低い声で静かに話す二人連れの会話と、ときおりハドソン河をエンジン音を響かせて下る遊覧船のデッキに群がる観光客のサングラスと、岸壁に控えめに打ち寄せる波の音ばかりで、真っ青の空から降り注ぐ太陽の熱射を遮る大きなパラソルさえあれば、申し分のない夏の午後の水辺だった。やがてふと、みな子が教えてくれた、ハドソン河に面した波止場はゲイが相手を物色する溜り場だということばが、遠くからかすかに耳に届いてきた。
「そうだったっけ」
胸をはだけた上半身を起こして小さな波止場をぐるりと見回すと、さきほどから絶えることなく控えめな声で会話を続けていたのは、私のすぐ隣の縁石に二つの頭をつけて、それぞれ反対の方向に足を伸ばしている水着姿の二人の若い男で、反対側の縁石に並んで静かに話しているのも水着姿の二人の男で、停泊している遊覧船のデッキに並んで座り、太陽に向かって太い足にバスタオルを掛けている中年の大男も、気がついてみるとみんな水着姿の男のカップルで、ズボンとシャツ、それも派手なピンクのシャツを着て胸をはだけているのは私一人だった。男女で大声で喋ったり大げさな身振りをするのがアメリカ人だと思っていた私は、ここにいるアメリカ人の男たちが醸し出す雰囲気がまるである種の日本人のそれに似ているのは異常だと気がつき、急に気持ちが悪くなってきた。身体がむずむずしてきて、まるで活字のページに映画を観るように読んでいたカポーティを閉じ、ピンクのシャツのボタンをはめ、男たちの親密な会話を邪魔しないようにそっと立ち上がり、まっすぐ金網のフェンス目指して歩き、扉を静かに開けて外に出た。こんな所はガイドブックには書いてない。
みな子はロングアイランドの旧式な遊園地に娘と妹とそのボーイフレンドと私を連れて行ってくれた。恐怖の木造のジェットコースターがここの遊園地の売りだった。コースターが天辺から落下するたびにレールを支える木組みがギシギシ身震いした。みな子が買った大きなソーセージを娘と私の3人でシェアして噛った。トラップの上のラヴチェアにみな子と二人で座り、係がボタンを押すと足下のベルトが突然回転し、2人もろとも奈落の底に落下して悲鳴を上げた。広いデッキが延々と伸びる人気のない海岸へ行き、私はみなが水遊びや砂遊びをするのを眺めた。私はみな子の家族に混じってどうしてよいか分からず、砂に埋められてオブジェになると、水浴びにきた人たちが見物にきた。

 

(3)

MOMA(近代美術館)の中庭/ニュ―ヨーク

MOMA(近代美術館)の中庭/ニュ―ヨーク

みな子の妹がソーホーの一画にBIZENという名のレストランを開くことになり、長年土足で踏み減らして泥の付いた倉庫の床の雑巾掛けを手伝った。なんど拭いてもバケツの泥水が澄むことはなかった。
「近藤サンはこんなことをしにニューヨークへきたんでしょうかね。底辺の女たちを見たし、女ばかりが住むロフトも見たし」
美術館のキュレータをしていたみな子が中華街に住む日本人女性のアーティストを訪ねるのに同行した。レストラン街の細い路地を入り、店の奥の階段を3階まで上がると、薄暗い広いフロアに100号のキャンバスを立て、暗い顔の若い女性が亀甲模様に油絵具を塗りつけていた。ここからニューヨークの画廊まで這い上がるのは容易なことではないと思えた。
アメリカ人の中堅の画家の家のパーティに、私はみな子のパートナーになって出席した。キャンバスの中央に一本の線を引いたようなアブストラクトが並んでいた。
「わたしはユダヤ人よ」と女性のキュレータがズボンの裾を上げ、足首のタツノオトシゴのタトゥーを見せて、「ニューヨークはアメリカではなくて地中海文化圏なのよ」と教えてくれた。
セントラルパークに面した、エントランスに金モール付きの制服を着たコンシェルジュのいる高級マンション。その上層階に住むギャラリーのオーナーが催したパーティへもみな子と同行した。広くはない居間も客間も夫婦の寝室も全部解放して、玄関周りからドアの両側、上部、ベッドの頭、クローゼットの上、ところ狭しと有名な画家、彫刻家の作品がぎっしりと、何重にも飾ってあり、テーブルの料理を取りに行くにも手足に気をつけて歩かなければならなかった。
私の一番のお気に入りの昼食と憩いの場所はMOMA(近代美術館)のガラス張りのカフェテリアと、緑と水のある中庭で、美術を愛する人たちが静かに語り合う雰囲気は、車が走り交う表通りとは別世界の、ユダヤ系貴金属店の金まみれの横丁からも隔てられた空間だった。
みな子は夜は歩く通りを選ぶこと、暗い通りの場合はアメリカ人は遠くから声を掛け合って同じ歩道を行き交っていること、アメリカ人はみな孤独であること、だから他人に思い遣りがあり、いざというときは親切に助けてくれること、そして日本人同士の冷淡、嫉妬、意地悪さについて話してくれた。
その頃みな子は桐島洋子さんのエッセイを読んで、自分もエッセイストになってアメリカでの体験を語り、生活の知恵を教えようと考えていた。その後『ニューヨーク人間図鑑』についで次々と本を出し、スペインやイタリアで料理を勉強し、ヨーロッパの街の水彩画を描いていたイラストレーターと再婚した。風景画と食材、食器を並べて展覧会を開き、レシピのトークをした。さらにダイエットの専門家の処方に修正を加えてオリジナルの塩水健康法のモデルを作り、全身の血液の浄化と脳細胞の活性化で、朝起きたときから晴天のように明晰な心身で一日を送ることを提唱して、銀座のホールで講演会を開いた。
ある夏の午後、みな子はいつものように色白の滑らかな肌に笑顔を浮かべ、塩水服用の健康法について講演を始め、半ばでいっとき頭の芯に疲労を覚え、
「ここでちょっと休みましょう」といってテーブルに頭をつけ、そのまま演台に崩れ落ちた。
健康法のレシピの会の会長はこうして頭の細い血管に故障をきたし、彼女が独自に調整したレシピは終わりを告げた。
自由で明るい、冒険心あふれるみな子が自然なままに生き続けていてくれたら、日本の女性たちは大いに勇気づけられ、希望を与えられただろう。