TOP > web 連載 > 世界で会った人 > 第9回 モンマルトルのヤス

世界で会った人

 

第9回 モンマルトルのヤス

 

(1)

モンマルトルの階段/パリ

モンマルトルの階段/パリ

パリで「フィガロ」紙の広告を切り抜いてアパルトマン探しをはじめた。便利で安い所はなかなかない。区分地図で通りを見定め、もよりのメトロの駅のシャトー・ルージュで降りて地上へ出てみると、地図からは想像もつかないパリの場末で、観光客の集まる華やかなカフェとは大違いの、労働者や近所の人たちがワインやビールを飲みに立ち寄る、ビヤホール風の店が角にある大通りだった。裏通りに入り、地図を拡げて通りの名を確かめる。店の家並がとぎれて、モンマルトルの丘に向かって急な崖を石畳の道が弧を描いて登るのが見えた。
登り口にプラタナスの緑が涼しげな蔭を落とし、丘の上にはサクレクール寺院のきのこ型の白い塔が並んで、ロマンチックな絵になった。細い坂道の途中には小さなレストランやバーの扉も見えた。緑陰に隠れた入口の「アモー・モンマルトロワ」と剥げた金文字で記したガラス扉を押すと、脇の小部屋に初老の女性のコンシエルジュがテーブルについて座っていた。5階の屋根裏部屋が空いているという。安ければそれに越したことはない。玩具の大砲のような真鍮の筒型の鍵を渡された。
南向きの窓からパリの家々の黒いスレート瓦の屋根に素焼きの煙突が肩寄せ合って立っているのが見える。身を乗り出すと、石畳の坂道が家の石壁に沿って登り、その先にサクレクールの白い塔が見えた。
筋向かいの北側の部屋に日本人の画家がいるとコンシエルジュがいっていた。翌日の午後、エレベーターの前に小柄な日本人らしい男が立っていた。目が機敏に動いて気配りのきく人で、それが画家のヤスだった。夜、蕎麦をゆでたからと部屋に招待された。優しい顔の奥さんがにこにこして迎えてくれた。小鉢に缶入りの蕎麦つゆ、細切りの黒い海苔もかかっていた。久しぶりに日本蕎麦。
ヤスは北海道のマシュケ(増毛)で生まれ、工業高校を出て札幌の気象台に勤め、内地留学で東京の気象台に移り、昼間大学に行かしてもらって地球物理学を勉強するはずが、そこには行かずに美術大学に行き、卒業のときにばれて気象台を辞め、新聞社の嘱託で地方の美術展を回ったという。
「ぼくの絵が美術賞もらってそれが『美術手帖』に載ったもんで、もういっぱしの画家気取りで、肩で風切って銀座通り歩いたもんですよ」と恥ずかしそうに肩をつぼめ、首を縮めていった。
「ずっと女学校の先生してたんですけどね、最近になって初めて、“人生の滝の音”を聞いたんですよ。このままではいかんと悟ってね。それで家屋敷売って借金返して、残りを息子2人と4等分して、お前たちこれで大学行ってあとは自活しろってね。ぼくら2人はそれを持ってパリで1年暮らして絵を描いて、それを日本で売ってまた一年パリで暮らすって、残りの人生を賭けたんですよ」
どんな絵を描いているのかは見せなかった。正直で人なつこい、おどけ話のうまいところが気に入られたのか、大会社の社長や医者のスポンサーがいて、3日後にフランスへ出航するという貨客船の切符を郵船会社の社長がくれて、入国管理局の課長の袖を握ったまま放さず、2日でパスポートを発行してもらって乗船に間に合ったとか、そのとき横浜に見送りにきてくれたのが今の奥さんで、教え子の姉さんだったとか。それでマルセイユまで船長の客人待遇で1か月の船旅をしたとか。家と土地を提供してくれた医者がいて、そこをアトリエに使ってきたとか、夢のような話が次々に出てきた。女学校の先生をしていたときも人気者で、北海道で冬眠している熊を捕まえる話が一番受けたという。
「山に入って大木の根元に祠のあるのを見つけたら、そこに丸太押し込んでぐいぐい押すの。すると熊がうしろ向きのまんまねむけまなこで出てくるの。それを網かけてつかまえるの。そんな話してたら生徒がおもしろがって親に話すでしょう。親が校長先生に言いつけたの。そいで女の校長先生に呼びつけられて、まじめに授業やってちょうだいっていわれて、すいませんって謝ったら、校長先生小さい声で、それで、熊どうやってつかまえるの、だって」

 

(2)

パリの市場

パリの市場

ヤスに隣の町のラマルクの市場に連れていってもらった。道路の両側に魚、肉、野菜、果物、菓子、チーズ、ワイン、オリーヴオイル、衣類やアクセサリーや帽子、靴を売る屋台もあった。ヤスは慣れた会話でドーヴァーで獲れたマグロの赤身を値切って刺身用に買い、牛肉と野菜を仕入れた。モンマルトルの北側の階段を上ると中腹にラマルクのメトロの駅が入口をかまえ、その脇の階段を登るとまた上に街と広場があり、また石段を上ると画家たちの溜り場であった有名なラパン・アジル(身軽な兎)のミュージックホールがあった。小さな二階屋はユトリロの絵で見たことがある。今も小さな舞台で女歌手がシャンソンを歌っているのが開いた戸口から見えた。観光客が狭いフロアで踊っている。石畳の坂を上ると右の斜面に小さな葡萄畑があり、真ん中に葡萄の蔓が蔦のように垂れたあずまやがあった。そこはフランス一高いワインを作っていることになるという。昔モンマルトル一帯は葡萄畑だった。毎年収穫時、競りに出された一箱の葡萄の値段が新聞で話題になる。観光バスが次々に下りてくると思ったら、その道はサクレクール寺院の裏手へ出た。そこから階段を下りるとシュヴァリエ・ド・ラ・バル通りへ出て、丘の崖下を覗くとアモー・モンマルトロワが下方に沈んで見えた。
5月5日の新聞に、モンマルトルの市場でモンマルトルの葡萄畑のワインが高値で競売に付され、50ケースの上にモンマルトル在住の外国人画家がそれぞれ持ち寄ったタブローが飾られたという記事が載っていた。
モンマルトルの丘の西側を歩くと、「モンマルトル歴史博物館」と書いた札が土産物店に懸かっていて、その地下とそのまた地下に蝋人形を並べて、キュビストたちが集まった「洗濯舟」の家、リストのスタジオ、カフェ、教会、会議室、レストランなどを縮小再現したのを、時間がくるとガイド役のマダムが説明してくれる。ヤスが教えてくれたピエロの人形の店があった。作家風の男が入口の脇でまた新作を一つ作っていた。その先の石段の縁にコワフュル(美容院)があった。マダムが一人鏡に向かって座っていた。広くきれいで落ちついた雰囲気なので入ってみたくなり、クープ(カット)とミザンプリ(セット)をたのんだ。ダンディーなムッシュウが人形の髪を扱うように丁寧に鋏を入れ、エレガントにブローしてくれた。大きなガラス窓から午後の日が入る部屋には、鋏と櫛を収めたガラスケースの上に、黒い衣装を羽織った白塗りのピエロが座っていた。

 

(3)

サンマルタン運河/パリ

サンマルタン運河/パリ

ヤスに勧められてパリの北の街はずれにあるクリニャンクールの蚤の市にいってみる。高架道の下にジーパン、レザーコートなどの屋台が続いて、ガードを越えるとイカサマ賭博が5メートルおきくらいに立ち、人だかりの周りをスリがうろちょろしている。古道具屋が多いが買うような物はない。大きな古本屋を一軒見つけ、喜び勇んで文学、美術書を調べ、『セザンヌとの会話』と、ブリューゲル論のベルギー語からの仏訳の古い本を1冊、3階まであって、20世紀文学の棚からスタインベックの仏訳を3冊、念のために訊いたらジョイスの本もあり、ずっと探していたジョルジュ・ジエの「スティル・プウル・ジェイムズ・ジョイス」をついに見つけた。別の棚に『セザンヌの手紙』もあったので買った。東京の友人のためにもよい土産になる。わずかな骨董を並べたモダンな店の奥にモデルのように美しい店主が一人椅子に座って帳簿を見ている。絵になる。美人も骨董の一つだ。
一番奥にレトロなレストラン・バーがあり、下町の庶民の雰囲気でバンドに合わせ、バーテンがオレンジ色のナプキンを肩に掛け、ブルーの前掛けをつけたままねばりのある美声でシャンソンを歌っている。厚化粧をした赤いブラウスの粋な女もいる。ビールが飲みたくなってカウンターに座る。隣のドイツ人風の男が写真を撮っている。独り者で、ディエップへ釣りにいくのだという。バーテンがビールとタバコをおごってくれた。バンドはアルジェリア、ベルギー、アメリカ、ポルトガルのメンバーたち。ポルトガル人の歌手がいい声で歌う。アメリカ人の女はエディット・ピアフを真似て歌っているらしい。客のユダヤ人の面長で、浅黒く脂光りした肌の女が「枯葉」を歌い、アメリカ人は「パリ祭」を歌った。これが昔のキャバレーだという。クリニャンクールに保存されたキャバレーの骨董品だ。
FM東京の「ジェットストリーム」のコピーを書いている友人にたのまれて、サンマルタン運河の両岸のマロニエの花は全部白かどうか確かめにいった。ルネ・クレマンの映画『パリは霧にぬれて』(1971)でパリ人もその美しさを見直した、倉庫街からバスチーユを通ってセーヌ河に下るこの運河は、何段もの水門を順に閉めて水を満たしては開いて流し、落差のある運河に艀を通す、優雅なパリの舞台装置である。運河が少しカーブし、その先にマルセル・カルネの映画(1938)で有名な「北ホテル」があり、太鼓橋があるところの水門の両脇に10本くらいよく伸びたマロニエがあり、ちょうど花が咲きそろっていた。老眼になりかけた目を凝らしたり眼鏡を掛けたりして手は届かない花を観察した。白といっても、紫と黄ときな粉色の3色からなって、花が2つずつ続いており、黒い花の芯に紫の斑点、その手前の花に黄色い斑点の芯、そこから伸びた数本の雄しべの先に蒲の穂の色の花粉がついていた。
日本に帰ってからヤスの絵を初めて見せてもらった。モンマルトルの風車やアパルトマンの窓から見たパリの屋根の風景、サーカスのピエロ。それから毎年銀座の画廊でヤスの絵を30年近くも見ることになった。ドンキホーテとサンチョの幻のような絵がよかった。ドンキホーテはヤスで、サンチョは妻のユキだといった。いや、その逆だったかもしれない。「ナルシス」と称して、馬とロバに乗った二人の像を下にも逆に描いてペアにするのが好きだった。ペアが二重になる。サーカスの玉乗りのピエロは哀愁を帯びて、後足で立ち上がった馬とともに、ヤスが病気になっても、首の骨のせいで腕が上がらなくなっても、懸命に筆を持って立とうとする画家魂の、哀しくも滑稽で勇ましい姿だ。