『奥東京人に会いに行く』はじめに

 

ぼくは東京の吉祥寺という都心から電車で二〇分ほどの郊外に住んでいる。この町には井の頭公園というこのあたりでは一番大きな公園があり、雑誌やテレビで取り上げられるようなシャレた雰囲気の飲食店がたくさんある。たびたび映画やテレビドラマの舞台として取り上げられることから観光客も多く、とある住宅情報サイトが集計した「住みたい街ランキング」で何年も一位に選ばれているような町だ。

ただし、人気の観光地だけあって、週末になるとたくさんの人でごった返し、食事をとるのも一苦労する。都内だったらどこにでもある立ち食い蕎麦屋にも行列ができるぐらいだから、ヘタをすると都心以上の混雑ぶりだ。

ほんの二〇年ほど前の吉祥寺は武蔵野ならではの素朴な雰囲気と、七〇年代から受け継がれた文化的な空気の残る町だった。だが、少しずつ雰囲気のある個人経営の飲食店が家賃の高さから閉店し、そのかわりにどの町でも見かけるチェーン店が通りを埋めるようになった。もちろんそのなかにも吉祥寺ならではの人の繋がりであるとか、いいところだってある。だが、格好よくて少し気難しそうな大人たちがたくさんいたかつての吉祥寺は、ずいぶんと遠いものになってしまった。

ぼくの場合、たまたま十代のころから吉祥寺を含む東京西部と縁があり、馴染みのあるエリアということもあって今も吉祥寺に住んでいる。決して嫌いな町ではないけれど、強い思い入れがあるというわけでもない。東京にかぎらず、そうやって自分が住む場所をチョイスしている方は多いことだろう。

ある日、ぼくは吉祥寺に関するとある新聞記事を目にした。大袈裟かもしれないけれど、それはぼくにとって衝撃的なニュースだった。

 

 昨年、建て替えのため取り壊された、焼き鳥店「いせや公園店」。井の頭公園の入り口にあり、立ち上る煙と香り、木造店舗は吉祥寺の「顔」だった。この跡地を発掘したら、なんと約一万五〇〇〇年前の「焼き場」が見つかった。(中略)店の周辺は井の頭池遺跡郡と呼ばれ、埋蔵文化財包蔵地に指定されている。跡地を武蔵野市教育委員会が試掘したところ、遺構などが確認され、昨年一〇~一一月に発掘調査をした。
 市教委によると、旧石器時代のものと考えられる「礫群」が四基発見された。拳ほどの大きさの石が集まっている遺構で、火を使った調理場だとみられている。焼けたような石や炭化物も出土。石をたき火で熱し、動物の肉を焼いたり蒸したりしていたらしい。
 「いせやのあった場所で、旧石器時代からバーベキューをしていたみたいです。当時もおいしかったはず」と話すのは市教委の文化財指導員、紺野京さん。店で焼き鳥を絶え間なく焼いていた店頭付近から出土が集中していて、大昔から「焼き場」の好位置だったようなのだ。(「朝日新聞」二〇一三年一月一〇日付け)

 

「いせや」は吉祥寺近辺の住人であれば、まず知らない人はいないという有名店だ。ぼくも何度か足を運んだことがあるし、店の前の道は毎日のように歩いている。いわば自分にとって生活圏の一部である。

その新聞記事によると、多くの飲んべえたちが熱い眼差しを送る「いせや」の焼き場、鶏肉がモクモクと美味しそうに煙をあげているその場所で、一万五千年前もの昔、当時の吉祥寺の住人たちが同じようにケモノの肉を焼いて食していたというのだ。同じ記事のなかで市教委の文化財指導員の方は「井の頭池という水場から近く、なおかつ日当たりのいい高台ということもあって、現在いせやのある場所に住居を構えていたのではないか」としているけれど、それにしても、一万五千年もの時間を隔てた人間たちがまったく同じ場所を焼き場に選ぶというのはいったいどういうことなのだろうか。同店がオープンした一九六〇年(昭和三五年)当時の責任者が、超人的なまでの野性的感覚を兼ね備えた人物だったのか。もしくは人間の直感なんて一万五千年前を経てもたいして変わらないということなのか。なぜそんなことが起きるのか、ぼくにはさっぱり理解できないけれど、古代と現代が焼き鳥の串で(文字どおり)串刺しにされてしまうなんて、なんともいえず痛快な話ではないか。

 * * *

ごくありふれた日常と旧石器時代が突如連結されてしまったかのようなこのニュースに触れて以来、好奇心を刺激されたぼくは自分の住む町のことを少しずつ調べ始めるようになった。

いせやのすぐ近くに広がる井の頭池は、善福寺池(杉並区)および三宝寺池(練馬区)とともに「武蔵野三大湧水池」のひとつとされている。泉が湧く場所は古代からなんらかの聖地だったケースが多いそうだが、井の頭池周辺の農家は池のほとりの弁財天をこぞって詣り、降雨の霊力を持つとされる井の頭池の水を汲んでは「サンゲ、サンゲ、六恨精浄」と唱えながら地元の田畑に撒いたという。つまり、井の頭池では雨乞いの儀式がおこなわれていたのである。驚いたのは、井の頭ではこの儀式が昭和二〇年代までおこなわれていたということで、当時の写真も残っている。雨乞いなどという禍々しい呪術がたった数十年前まで井の頭池でおこなわれていたなんて!

また、井の頭池周辺には多くの伝説も残っている。とある娘が井の頭池のヌシである大蛇へと変貌してしまう民話など、蛇神にまつわる話がいくつもあるのもとてもおもしろい。そういえば、井の頭池の弁財天には顔は老人、身体はとぐろを巻いた蛇という宇賀神像が鎮座しているが、少々不気味なこんな石像が井の頭池のほとりに建っていることなんて、吉祥寺にやってくる観光客はほとんど知らないことだろう。いや、地元の人間でも知らないものは多いだろうし、実際にぼくもまた、信仰の地としての吉祥寺の掘り下げていくなかでその不気味な石像の存在に初めて気づかされたのだった。

そうやって遥か昔へと繋がる歴史の糸を手繰り寄せていくたび、目の前に広がる吉祥寺の風景が変わっていくようにぼくには思えた。チェーン店と観光客が押し寄せる町の風景の向こう側に、なんだか得体のしれない世界が広がっているような気がしてきたのである。

もちろん、吉祥寺だけが特別な場所だったわけではない。東京の多くの場所には、そのように神話めいた物語が存在する。ときには「いせや」の一件のように、妙な形で時空がねじ曲がって現代と古代が接続されてしまう場合だってあるだろう。
いわばそれらは異界へと繋がる日常の裂け目のようなものである。意識をせずに歩いていると見過ごしてしまうものばかりだけれど、意識して歩くようになると、見慣れた東京の風景が突然違うものに見えてくる。そういう裂け目が東京中に存在していたことに、四〇歳を手前にしてぼくはようやく気づかされたのだった。

神社の鎮座する高台は古くからの聖地だったかもしれないし、ちょっとした窪地ではかつて雨乞いがおこなわれていたかもしれない。ひょっとしたらアスファルトの下には大蛇が蠢いていて、高層ビルは天空の世界と直結しているんじゃないか。目の前の焼き鳥屋の下には「いせや」と同じように旧石器時代の遺跡があり、ぼくのような男がケモノの肉を乱暴に頬張っていたのではないか――。

ちょっとノイローゼ気味に思われるかもしれないけれど、ぼくのなかでは日常が突然ドラマチックに一変してしまったような感覚があって、つねに不思議な高揚感を感じながら日々を過ごすようになった。それがまたなんとも楽しくて、毎日が自然と色彩豊かなものになっていったのである。

そうした日常を送るなか、ぼくは次第にこんな思いを持つようになった。

東京の「奥」をもっと見てみたい。自分の知らない東京に触れてみたい。

 * * *

東京に生まれて約四〇年。ぼくは東京のことをあまりにも知らなすぎた。東京の「奥」に触れることで、ありふれた日常がいくらでもカラフルなものになることを実感していたぼくは、さらなる刺激を求めて東京の奥の奥へと足を踏み入れてみたくなったのである。

ただし、東京全体をなんのテーマもなく探るのはあまりにも漠然としすぎている。東京の神話世界や信仰の地をめぐる研究書はいくらでもあるし、考古学や民俗学の学者でもないぼくが同じように観点から東京を調査してもその成果はたかが知れているだろう。

どうせ東京の「奥」に触れるのであれば、他県との境界線付近、いわば東京のはしっこだけを巡ってみるというのはどうだろうか? 県境とは行政的な理由によって機械的に線を引かれている場合もあれば、川や山といった地形的な境界線をそのままボーダーラインにしている場合もある。そこにあまり意味を持たないケースも多いわけだが、東京のはしっこだけを巡ることで見えてくる東京の形とはどんなものなのだろう? 正直なところ、一部の地域を除いていままでほとんど縁のなかったエリアばかりだが、だからこそ、今まで知らなかった「東京」に触れられるかもしれない。

また、史跡を訪ねたり郷土資料を掘り返すだけでなく、そうした地域に現在住む人々に話を聞く中から何かを見いだすことはできないだろうか。

ここ数年、僕は祭りや盆踊りを追いかけて日本各地を旅する生活を続けている。そんななか、それぞれの土地の古老がポロッと重要なことを口にする場面に遭遇することがあった。それはときにサーヴィス精神からのホラ話のこともあったけれど、たとえホラ話であったとしても、研究者が書いた民俗資料にはない不思議な説得力をその言葉が持つことがあった。

事実なのかホラ話なのかわからない地域の話をいつか拾い集めてみたい。そこから立ち上がるもののなかに、その土地ならではの風土を嗅ぎ取ってみたい。ぼくのなかに眠っていたそんな気持ちがムクムクッと湧き上がってきて、いつのまにか抑えきれなくなっていた。

 * * *

テーマは山、川、海、島という四つ。今回の旅において、都市部は基本的に通過する場にすぎない(ただし、取材を進めるなかで、ぼくは東京の周縁と都心部という中心が決して切り離せないものであり、なんらかのかたちで強く結びついていることを知るようになる)。そうやって徐々に「東京の奥」をめぐる旅のルートと方法が浮かび上がってきた。

ぼくはこれから探検する地域のことを「奥東京」と定義してみた。二〇一〇年代以降、東京随一の繁華街である渋谷の周辺地域にはシャレた個人経営の飲食店が増え、「奥渋谷」などとも呼ばれて注目を集めるようになったが、そのネーミングを多少パクらせていただいて「奥東京」。「オクトウキョウ」と口に出してみると、案外語呂も悪くない。

二〇一七年春、そうやって「奥東京」を巡るぼくの旅がスタートしたのである。

大石始