『翻訳者 北山克彦さんが語る 『さよなら僕の夏』 翻訳の現場から

翻訳の楽しみと苦しみ、などと書き始めるといまさらながら気のひける話題ではある。とはいえ、「楽しみ」はさておき、「苦しみ」についてはなにかひとこと言いたくなるのも翻訳にあたるもののさがか、それとも当方のいたらなさを告白しているようなものなのかもしれない。

まず翻訳は体力勝負の仕事であること。あれこれ辞書をひきくらべ、あるいはパソコンの画面とにらめっこしていると、それだけで年を重ねるにつれまず目にこたえてくる。集中力や細部への注意力をきらさないためには休息も必要だし、長期戦となれば睡眠不足は致命的だ。見落としや誤訳をしないためには精一杯の努力をしなければならないのだから。

それでも難解な箇所や、適訳に困っている語句が頭から離れず眠りを妨げられたりもする。テキストの正確な解釈とその的確な翻訳表現が翻訳という作業の根幹だから、これは言うだけ野暮というものだ。といってもそれがなかなか難しい。
 
すこし前のぼくらの先輩には、アメリカやフランスに行ったこともない翻訳の大家がいたと聞く。ぼくらの世代にしても、かつては店や商品の名前、料理の名前から家、くるま、交通機関から都市の構造にいたるまで、一次的な体験ぬきで始まった。それらの知識と経験の獲得がぼくらの歩みでもあり苦労でもあって、語学の学習についても似たようなことが言えるだろう。物と人がこれだけ世界中をいきかい、同時代的になるとはたいしたものだというしかない。

インターネットの働きも大きい。今回の翻訳にあたってどれだけグーグルの世話になったことか。Kissel Karとはどんな自動車か、wax bottleとはどんなキャンディなのかはたしかイメージ検索に助けられた。ブック・サーチでは語句の使用例がずらり出てくる。コロケーション(連語)やコンテクストはこれまでの辞書に欠けていたもので、翻訳するには大きな武器だ。

しかしそれで即解決といかないのが翻訳で、はやい話がタイトルのFarewell Summerである。farewell-summerとして「遅咲きのアスター」などと花であることを記してある辞書はあることはあるが、それは「さよならの夏」「別れの夏」の季節に咲く花であるからであり、またSummer, farewell.となれば「夏よ,さよなら」となろう。そして小説ではこの三つの使用例がみられるのだ。となるとこれはなんと訳す。

インターネットをあれこれみているうちに、ブラッドベリのファンクラブのあいだでこの訳を話題にしていることをみつけた。ある熱心なファンがこれを「惜夏草」と訳すことを提唱していた。なかなかのセンスに感心したが、すでにぼくのほうでは「夏の別れ」を考えていたところで、本のタイトルのほうは編集部の推す「さよなら僕の夏」となっていた。じつはfarewell summerの語句はほかのブラッドベリの作品のなかでも使われている箇所があるそうな。ぼくはあえてそれがどう訳されているか調べていない。苦し紛れでも自分なりの訳を与えてみたい潜在意識でもあったのだろうか。

ところでインターネットでの調べにもかかわらず、この花の正確な正体はまだまだ定かだとは言えない。訳をあたえることは実物の知識とはまたべつのことなのだ。ちょうどおなじことが「たんぽぽのお酒」について言えるように。

 

『Farewell Summer』2006年刊

『Farewell Summer』2006年刊

北山克彦
(きたやまかつひこ 翻訳家/英米文学者)
■1937年大阪生まれ。東京外国語大学英米語科卒。
東京都立大学大学院英文科修了。 立教大学名誉教授。
■訳書/ポドーレツ『文学対アメリカ』、
セネット『公共性の喪失』(共に晶文社刊)、
ファウルズ『黒檀の塔』(サンリオ刊)、
ショー『乞うもの盗むもの』(早川書房刊)、
ナボコフ『ロシア美人』(新潮社刊)他多数。