神沢利子さん講演会

神沢利子さん講演会

第2回

私は年をとりましたが、年っていうものはいっぺんに取るものではなくて、毎日毎日でしょ。だから急に「年取ったあー」って思わないですよね。だから今まで出来たことが出来なくなることはあるけれども、それはいっぺんにじゃなくて徐々に徐々にだから、30から今の身体になったらほんとうにもうびっくりたまげるけれど、そうじゃなくて徐々に徐々に年を取っていくからなかなか自分ではわからないのね。皆さんもそうだと思うのね、20になっても、30になっても40でも、自分の年齢ってどこか落ち着きが悪いものですよね。

40のとき、自分は40らしいかってとても気にしたことがあった。で、いまも80で80らしいかと思うとぜんぜんわからないから、わからなくていいと思うようになったのね。その時その時、それぞれの時代をその人らしく生きていればいいんだと。そういう意味では私は年をとって、とても楽になりました。若い時には30になったら30らしくしなきゃいけないとか、60になって、60って中途半端でいやだなー、若くないし、おばあさんでもないしと。じゃあ、70になったら安心したらいいのだけれど、なんかおかしいんですよね、そんな人の目っていうか、人の思いを気にしていたわけでしょ、でも80になったらもうその枠はとれましたね。

私は子どもたち相手にしゃべるのが苦手なのですけれど、子どもに話すときは、すごいおばあさんだなって思うだろうと思うので一応言うのです。「あなたすごいおばあさんが来たと思うでしょ」ってね。たぶん本を書く人はもっと若いと思っていると思うのね。今日来てくださったみなさんもそうかもしれないけど(笑)。そのとき子どもたちに言ったのね、「あなたが見ているこの80のおばあさんの中には、70のおばあさんや60の人も50の人も30の人も20の人も10の人もみっつの子どももいるのよ。

入れ子のように、ずーと中にいるのよ」「私が子どものお話を書くときは、その自分の中の小さい子どもとお話したり、その子がどういう風に思い、感じたか、その子の独り言のような、ことばに耳を澄まして、会話を重ねながら書いているのよ」ということを言ったりします。「そうでなかったらどうして大きくなって子どもの心がわかる?」って、私、子どもの心がわかるなんて大それたことは言わないけれど想像するんですね。それは自分が子どもの経験があるから。「あなたの先生だってそうよ、学校の先生だって子どもだったのよ、お母さんも子どもだった、みんな昔は子どもだったのよ」「あなたがお留守番して寂しがっていたらお母さんはああ自分もそうだったなあってわかるのよ、時々見当違いのことも思うかもしれないけれど、そうゆう風にして私たちは子ども時代を自分の中に持っているのよ。」

福音館で出したほぼ自伝的な『流れのほとり』という本に書いているのが私の子ども時代です。私が育ったのは樺太、今のサハリンですね。北海道の北にある島です。太平洋戦争の前は南半分が日本領だったのね。私がいたのは、南半分が日本領だったときの樺太です。北緯50度が国境なのですけれど、その国境に近い小さな小さな山間の村で子ども時代を過ごしたんですね。内川という小さな村です。

父親は炭坑に勤めていたのですけど、炭坑の操業が始まり盛んになるにつれその村は大きくなりました。けれど私が行った頃は戸数が何戸もない小さな村です。学校は教室が四つしかない。1年も2年も同じ教室でひとりの先生が教えているそんなところで育ったのですね。本屋さんもないから本は買えない。本を買うときは東京に注文して買うのね、でも開拓農家とかそういう村の子どもはほぼ本なんて買えない。村の誰かが、1冊買った本が村中をまわるのです。そんな文化からは遠い生活をしていました。

村にお店が一軒か二軒しかない。なんにもないところだけれど、でも自然だけはあるのね。自然しかないところなのね。遊ぶといっても遊具や道具はないです。だから石ころでも遊び道具になるし、草でも鳥でも虫でもなんでもが子どもたちの遊ぶものになるのです。草むらの中にずーっと座っていたりして一人で遊ぶのも好きだったし、大勢で遊ぶのも好きだった。草むらで私は一人でかくれんぼしているのも好きでね、「誰もみつけてくれないなあ」と思いながら(笑)隠れていたりするのだけれど、草の中ってとってもいい気持ちなんですね。目の前に小さなバッタがピンピン跳ねていったりアブが来てまた飛んでいったり、そういう自分の歩いていける範囲しか世界を知らなかった。

その頃、村には国境まで続く1本の道があって、その軍用道路は馬車が2台すれ違うのに苦労するような幅しかなくて、でこぼこの道、舗装していない道です。軍用道路という名前は立派なんですけれど、それがずーっと続いている。その両側にパラパラと家があって、二階屋も少ないような村でした。だから草むらはどこにでもあったから、どこででも遊べた。草むらにじーっとしていると、向うにはシマリスっていう小ちゃくって黒いシマのある、ちょろちょろしたかわいいリスがいて、私たちは木ねずみと呼んでましたけれど、その木ねずみがそこらへんをちょろちょろ走っているんですよね、木の上でなく地べたをね。

そしてちろちろきれいな清水が湧いて細い流れになっているところで私も水を飲むし、虫たちもそこで水を飲んでいるようなんですね。ちょうちょが来て飲んだり、そういうのをじーっと見ているのがとっても楽しかった。バスもなければ車もない汽車もない、交通機関はほとんど馬なんです。だから子どもたちは自分の足で歩けるところしかいかないのね。子どもの足で歩いてゆく遠足は隣村って決まっているんですね。隣村っていうのはむかしでいうところの二里とか三里とかの距離ですから四を掛けるとキロメートルになりますね。そういうところに行っていたのね。

行動範囲は自分が歩いていけるところだけれど、草むらにいると遠くから、風が吹いてくるでしょ、風が髪の毛をなぶっていく。天気図をみますと矢印が描いてありますよね。子どものころは風ってどこから吹いてきたのだろうかとか、そんなこと考えないけれど、実はその風は遠くベーリングから吹いてくる風なんですよね。そしてまた上からはお日様。高い天界。そう宇宙にある太陽からその光が地上に落ちてきて、その温みが自分のほっぺたや手に伝わる。だから狭い範囲のことしか知らないけれど、遠おーいところのものから温められたり、風になぶられたり、そういうものを感じて、宇宙と交歓するというか、そんな子ども時代を送ったことを、私はとてもしあわせに思っています。

家には馬が2頭いました。父親や兄たちもよく馬にのっていました。私も馬を見るといまだにドキドキするくらい大好きですね。馬はいたけれど、私は熊は飼っていないのね(笑)だけど熊もとりわけ好きなんです。私の書く童話には熊が出てきます。私はなぜ熊が好きなのだろうかというのはわからなかった。北海道や樺太の熊はヒグマだから本州の月の輪熊より大きいのです。いろんな毛の色の熊がいるのだけれど、私の書く熊は金色熊でね、金色にピカピカ光っているんです。ロシアでもアジアでも日本でも童話に出てくる熊ってたくさんありますよね。童話に出てくる熊はどこか間が抜けていたり大らかであったり温かーくて、頼りになるものであったりします。そういう感じを人間は熊に対して抱いていたのでしょうね。

むかしから熊は森の王として神のように思われていたし神聖なものでもあった。それは頼りになる、人を守ってくれるものでもあり、祈りの対象でもあった。その反対に人を傷つける、相反するものも持っていたのでしょうけれど、人を癒すというものも確かに熊は持っていたのだと思うのです。そういうことを勉強してそう思うのではなく、身体で思うのです。熊に対する親しみっていうのを身体の中から感じてね、熊っていうとそれだけでうれしくなる。「なんにもお話がでてこないのよ」っていう時でも、熊、それから苺摘みってことばを唱えたり、考えたりすると、なにか湧いてくるの(笑)。苺摘みって言うと唾が湧いてくるようにね。なにか書けそうな気がしてくるくらい自分の奥底にいるものなんですね熊は。

そしてある時どうしてなんだろうかとよくよく考えてみたら、父親が熊みたいな男だったんですよ(笑)。はあーと思うんですよね。子どものときにお風呂から上がったところを見た父に毛がいっぱい生えていて(笑)、大きな男だった。すごく毛深くてね。父親が熊だったんだなーと、年をとってから考えるのです。父親は外見たいへん男性的な男でね、写真をみるとたいていの人が、「わーかっこいい」とか「男前だ」っていうのね。子どもの私はそんなことは思わなかったけれど、子供心にお父さんを熊のような神様のような力強い頼もしいものとして思ってたんだろうなと今は思うのです。馬に乗ったり、鞭をならして馬ぞりをかったりしていた、そういう父に対する子ども時代のわたしのあこがれみたいなものが、熊に対する思いといっしょになっているのかなーと思ったりします。

そういう思いもあっって、熊の話はまあずいぶんたくさん書きました。樺太の森には実際に熊がたくさんいたのです。私自身は遭ったことはないんですけれど、熊に遭った話は、ほんとうによく聞くんです。「あの人は茸採りに行って熊に遭った」とかね、ひどい話も聞くんですよ、熊に追っかけられたとか、食われたとかね。捕えた熊のお腹を裂いたら中から長靴が出てきたとかね。「長靴は消化できねーんだなー」とか、そんな熊の話をするときは、もうみんな活気づくのね。特に男の子たちはそう言う話をするのが大好きで、ストーブの前でみんな目を輝かせて熊の話をするんです。男の子はもちろん女の子だって熊の話をするときは生き生きするって、あれはなんでしょうか。熊というものに対するあこがれが私たちの心の底にあるのですね、そんなことを思ったりしています。